年越しをDの家で過ごした時のことだ。その女性はとても美しく、口数は少ないため、果たしてその場にいて面白いのだろうかと訝るほどだが、少なくとも自分より長く居残って、朝になれば自前のおせちをおれたちに振舞った。あまり話せなかったが、彼女がおれの読んでいる本を気にかけてくれた時、趣味が認められると自分自身が認められたような気になる思春期の少年のようによろこび、これはボルヘスと言って、ラテンアメリカの作家の本で……と我ながら驚くほど弾んだ口調で返したが、このようなよろこびをもたらしてくれた女性とあまり話せなかったのが心残りで、そのため、ここ数日は彼女への印象で満たされている。白く弾力のある肌は、吸い込まれるようなつやを持ち、高く筋の通った鼻立ちは、自分のもののように大きすぎることもなく、顔は丸みを帯びていて小さい。でこは広いが、そのため分けられた前髪から、彼女の容姿の美しさがわかる。
ここまで書けばわかる通り、自分は軽薄にも恋に落ちたのだ。
Dの家での印象がここまで魅力的な思い出になりつつあるのも、間違いなく彼女の影響に違いない。ああ、さらに軽薄なことに、恐らく自分は一年前に彼女にナンパしたことがあるのだ。場所はライブハウス、無料で入った友人たちの企画である。ある程度話せたが、それ以上にはならなかった。否、もしかすると避けられたり、嫌な印象を持たれたかもしれない。去り際におれ達はインスタを交換し、その時、ああ、このアカウント、と驚いたような声を出した。間違いなくおれを知っていたのだ。二、三日と経って彼女からXのフォローも来た。彼氏がいなければいい、と思いながら、自分にほとんど付き合っていると言っていい女性がいることをその都度思い返しては、悩んでいる。Cを振ることはできない。あいつの悲しむ顔をみたくないし、おれもあいつから離れたくない。ただDの家から帰って眠るおれを、昼頃に来宅したCが揺り起こした時、その顔のほうれい線、目尻の小じわ、乾燥した口元が、それまでは気にもならなかったのに、途端に醜く思えた。S(それが先日知り合った女性の名前である)の若く美しい容貌、豊かな胸と見事な腰回りに比べると、十分に美しく、魅力的であるはずのCが劣って見えたのだ。正直に言えば、この二日はあまり眠れなかった。おれの身体を抱き枕のようにして眠るCを隣に、彼女の存在が重荷に思え、これから始まる同棲が恐ろしくなった。何より彼女に合わせることで抑圧される自分自身の本性、彼女との生活で無駄にされる時間、その間に読めたかもしれない様々な頁が恋しくなった。しかし、Cがいなければ不可能なことが多くあり、去年、あんなにも読書に集中できたのはCのおかげなのだ。前の彼氏が開いた店に挨拶しに行くといった今晩、彼女は閉店後もそこにいて、終電を逃した今は、街にある喫茶店で始発を待っているという。もしおれが電話したいと言わなければ、彼女はあのまま店にいて、男に身をゆだねたろうか。おれはそれを阻止したわけだが、阻止する権利があるのだろうか。ポリアモリーの気があるのではないか、とRに言われた時、確かにそうかもしれないと頷いた。おれは複数の異性と連絡を取り合うのが日常で、正直に言うと、このままC以外の女性と関係を持つことが悪いとは微塵も思わないし、他のひとには許されない特権が、自分には許されると思っている。しかし一人ひとりを大事にする自信はあり、Cへの愛情が揺らいだこの数日でさえ、おれの心は彼女に忠実であろうと常に願い、何があっても傷つけたり、悲しませたりしてはならない、なるべく彼女を喜ばせなければならないと考えていた。だから、もしおれがSと結ばれるとなれれば(きわめて早急な思い込みだ、まだ彼女と知り合って間もないうえ、ほとんど話すらしていないのに)、おれはSをCと同じくらい丁重に扱うだろうし、今のおれがCと一生涯の付き合いを持ちたいと願っているのと同じように、深い忠誠を彼女に誓うだろう。しかし、おれは何と軽薄なロマン派だろう。このように厚かましい美辞麗句も、彼女が美しいから、たまらなく美しいから、それに惑わされたからに他ならない。ああ、Kが言ったことは正しかった。おれは人間は見た目がすべてじゃない、とKに語ったが、おれが彼女にそこまで熱中できないのは、確かに愛らしい見た目をしているが、Sには遠く及ばないからだ(無論Cにも及ばない)。しかしそれでもKを手放さなかったのは、Kのように仲のいい女性、C以外に定期的に出かけられる女性が他にいないからで、内心では、もし変わりが見つかればそちらにシフトしたいと願っていたし、ラウンジで働きたいと願った動機のひとつは、彼女のようにきらびやかで(すなわち水商売風の見た目で)、彼女よりも美しい女性、彼女の代わりになる女性と知り合いたいと願っていたからだ(しかしKはKで面白いひとで、おれは彼女のことが大好きではあるから、何らかの形で友情を保ち続けたいものだ)。
と、ここまで情熱的な口調で書きなぐったが、実を言うとSへの想いは既にある程度落ち着いている。つまり落ち着いて、いかに彼女と仲良くなるかを考えている(口説く、という言葉は自分にとってあまりにも相応しくない。ひとりの女性と肉体関係を結んだならば、少なくとも一年以上はおれはそのひとと同じことをしたいと願うだろう)。いくつかの案が頭に浮かぶが、どれも突拍子もない気がするし、不自然な気がするが、何処かできっかけを作らなければ、逃げてしまうかもしれない。時には獲物が動くまで身をひそめる忍耐も求められるが、待っているだけでは何も始まらない場合も多く、自分から、さりげなく仕掛けなければならないのだ(ここまで月並みな表現を書き連ねる自分が恥ずかしい)。不思議と苛立ちや焦燥もなく、ただうまくいくという、根拠のない自信だけが残されている。しかし何処かで後ろめたさがあるのだろう、最近は罪の意識や贖罪を請う曲ばかりを聴いている。
※追記
実に自惚れた、穢らわしい言葉の羅列。自分の愚かさに驚きを通り越して呆れてさえいる。少し前はKとの関係性であんなにも大袈裟な苦悩の身振りに没頭していたのに。しかし、こうしなければおれは生きられないのだ。